何か人から頼まれた時は、ちょっと無理してでも引き受けてしまうことはありませんか?
自分のことだと、時間があっても中々着手できなかたり、なぜか今やらなくてもいいことを始めてみたりして、結局実践できないことが多いのではないでしょうか。
私は子供の頃、勉強もせずに遊びほうけていると、親から注意される時に
「勉強は将来の自分のためでしょ!」などとしょっ中言われていました。
確かにそうなんだけれど、どうにもやる気が湧かず、試験前でもなぜか
普段はあまりやらない部屋の片付けを無性にやりたくなったり、関係ない本が見たくなったりしていました。
もちろんそんな調子なので、結果は悲惨なものでした…。
しかしながら、自分ごとすら出来ないのに、なぜか頼まれごとは、
どんなに忙しくても一旦引き受けると期日までにキッチリやってしまいます。
部活動や研修生のころも、自分ごとは、気持はしっかりやらねばと思いつつも
優先順位が高いものに取組むほどに、どうでもいいことが気になってしかたがないのです。
こんな出来事でも様々なメカニズムが垣間見られます。
まずは、機能しないコミュニケーションの要素である自己弁護と正当化です。
怠けている自分を無茶苦茶な言い訳を作り出して、勉強したい気持はあるが、
やらないのではなく、出来ないとしてしまいます。
エネルギーは、使えば使うほど減少します。
反対にバイタリティーは、不思議と使えば使うほど湧いてきます。
言われて仕方なしにやらねばならない勉強は、エネルギーは少々使い減少し、
バイタリティーは湧いてきませんので、全てマイナスに向かいます。
そして、人に頼まれた事にしっかり応えるのは、"甲斐"があるからです。
貢献するともいいますが、貢献すると見返りがあります。
エネルギーは使うので減少しますが、バイタリティーは湧いてきますので、プラスに向かいます。
自分ごとであってもそこに少しでも甲斐が見出せればバイタリティーが湧き、
目標達成や自己実現に近づくことができます。
仕事や勉強も自分以外の人が喜んでくれることだと、甲斐を見出すことができます。
スポーツのシーンでもありがちです。
市民ランナーでもフルマラソンのタイムが3時間を切るようなレベルでは、
在り方によって成績が変わってくることがあります。
本業の整骨院で、ケガの施術を提供していますと、ランナーからタイムの伸び悩みを相談されることも多々あります。
今まで体育会系の出身者は、くじけそうになると、先輩や監督から「自分のためだろ!」と檄を飛ばされてきた体験をお持ちの方が多くいます。そこで歯を食いしばって頑張ってトレーニングを続けるのですが・・・
お話を聴いていると、最初は自分のためといい聞かせて頑張っていたのが、厳しさが増すたびに先輩や監督から怒られないためや、自分の成功を応援してくれるから底力が湧いてきたように感じるとのことです。
そこで、相談者の状態にもよりますが、あえて自分以外のために走るとするならばどんな人?
と質問してみますと、家族とか、友人・トレーナーなどがあげられます。
なんだか人間は人と人との間で存在しているように感じます。
世間とか瞬間とか間(ま)が身近に感じられます。
喧嘩しそうになったりすると、誰かが「まぁまぁまぁ」なんて間にはいったりして。
間→空間 そこには計り知れない力が湧くのかもしれません。